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第1回ベルクソン・カフェ

ポスター

この度、「フランス語で読み、哲学するカフェ」を開くことに致しました。カフェの名前はフランス20世紀哲学の一つの流れである生の哲学の源にいるアンリ・ベルクソンから採りました。哲学に抱くイメージは人それぞれで、その定義は哲学者の数ほどあると言われます。ゆくゆくは生の哲学に関連した哲学者の作品を読み、自らの変容に結びつくような哲学を展開できれば素晴らしいと考えています。そこに入る前に、哲学のいろいろなやり方を学ぶことから始めることに致しました。具体的には、一つの纏まった文章をフランス語で読み、日本語で議論するという形式で進める予定です。フランス語の知識はあった方がよいかもしれませんが、参加の必須条件ではありません。

日時:
2017年6月24日(土) 16:00-18:00
2017年7月1日(土) 17:00-19:00
(1回だけの参加でも問題ありません)
 

テクスト:

  Pierre Hadot
« La philosophie comme manière de vivre »  
「生き方としての哲学」  

Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 289-304
(Albin Michel, 2002)   

初回は講師が哲学に入ることを後押しする言葉を残していた20世紀フランスの古代哲学研究者Pierre Hadotのテクストを取り上げます。参加予定者にはテクストをあらかじめお送りし、それを共に読みながら哲学のいろいろなやり方について考える予定です。このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております。ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

  会場:
恵比寿のカルフール
初回はA会議室、第2回はA+B会議室

(注: 開始時間と会議室が異なっています)
 

会費(1回分): 
一般 1,500円、学生 500円
(飲み物が付きます)


ご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします。 


(2017年3月17日)



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会のまとめ


第一日目

まず、第1日目を終えた段階で気付いたことについて触れてみたい。今回は単純にテクストを読み進むという漠然としたアイディアで始めることにしたため、いろいろな問題点が浮き彫りになった。一つは、読むテクストの難易度とそれに充てる時間の関係を厳密に考えていなかったことが明らかになった。端的に言えば、今回のテクストの半分を2時間で読むというのは少々無理があったのではないだろうか。単純に読んでいくだけであれば不可能ではないが、文章を味わいながら書かれてあることを吟味し、その中に浸るような時間を感じるためには、もう少しゆったりとした時間が必要な気がした。二つ目は、明確なイントロなしですぐに読みに入ったが、作品の背景や構成、注目すべき点、議論すべきテーマなどを最初に提示すると、読みが注意深くなり、集中力を増すのではないかということである。これらは次回以降の検討課題になるだろう。


今回選んだテクストはピエール・アドーの「生き方としての哲学」だが、私が2006年にこの言葉に触れていなければ、その後の行く先は変わっていたかもしれない。それくらい大きな言葉だったので、その背後にある意味を考え直そうという意図もあった。

それまで歴史家は哲学的言説(le discours philosophique)だけを古代哲学の中に見ていたが、アドーはそこにもう一つの要素、すなわち生き方としての哲学(la philosophie comme manière de vie)があることを見出したのである。このエッセイでは、ヘレニズム時代、ローマ時代の哲学の特徴が分析されており、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、懐疑派、ストア派などが出てくる。そこで指摘されているのは、次のようなことである。 

哲学はそもそも手に入らない知に向おうとする運動で、そこに逆説と偉大さがある。哲学は根源的な回心、根源的な変容を要求する精神(魂)の進歩の一つの方法である。哲学は自律性、内的自由(autarkeia)、自足性を達成するための方法である。それだけではなく、特にストア派とエピクロス派では宇宙的意識、すなわち、われわれは宇宙の一部を構成しているという意識が加わった。

さらに、哲学は人生と一体化した永続性ある行為で、絶えず更新されなければならないと指摘する。ストア派の場合、人間の意志が宇宙的自然の意志、すなわち理性と一致すること、エピクロス派では、快楽、それは結局のところ存在する悦びになるが、それを求めること、そして人生の有限性の自覚と現在への集中を説いた。なぜなら、それだけがわれわれがコントロールし得るものだからである。さらに、そこには宇宙の全体が含まれ、関わっているからでもある。

ここで問題となるのが、ストア派が提唱した「哲学についての言説(le discours sur la philosophie)」と「哲学そのもの(la philosophie elle-même)」との違いである。哲学とは、哲学の構成要素、すなわち
物理学、倫理学、論理学の理論を語ることではなく、それらを生きなければならないと説く。これはどういうことかというと、それぞれ、宇宙を瞑想し、正しく行動し、よく話し、よく考えることである。

ここでアドーは、「哲学についての言説は哲学ではない」と言っている。そこでは、エピクロス派の「哲学者の言説が魂の病を癒すことがなければ、それは空疎である」という一文を引用している。しかし、現代においてこの問題を考えるとすれば、議論の余地があるだろう。つまり、哲学についての言説を捨て去ってよいのかという疑問である。



第二日目

最初に前半の簡単な纏めをやってから後半の読みに入った。前回は数名の方が読みに参加されたが、今回は1名だけで、殆どを講師が読むことになった。 前半の最後に、古代の哲学の中には哲学的言説しかないという偏見がどこに由来しているのかについての推論があった。アドーは中世から現代に至る哲学の発展が影響しており、キリスト教の役割は大きいと見ている。当初、キリスト教は哲学として提示された。それはキリスト教的生き方としての哲学で、古代哲学の宇宙的理性との一致やプラトン、アリストテレスの知性を取り込む必要があったというのだ。この統合過程には、ストア派やプラトンの「自分自身に対する継続的な注意深さ」(prosochè)、瞑想(省察)、自省、魂の平静に帰せられる価値が見られる「死の鍛錬」などがあり、それが修道院運動の中で発展していくことになった。

中世ではそれがさらに進行し、哲学は宗教の下僕になって行く。哲学は自律性や最高の科学としての立場を失い、宗教が求める概念を提供するようになる。教養学部は神学部の準備段階にしか過ぎなくなり、哲学も純理論的、抽象的になる。神学を科学に置き換えれば、この状況は現在と重なるのではないだろうか。あるいは、さらに酷い状況なのかもしれない。教養課程など必要ないという認識が、どこから出てくるのか、罷り通っているように見えるからである。

教会が作った大学では、専門家を育てる専門家に向けた教育が18世紀まで行われ、自らを教育しようとする一般の人向けではなくなる。ただ、大学の外では、デカルト、スピノザ、マルブランシュ、ライプニッツなどの独創的な哲学者が出た。18世紀終わりからはカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどが大学の中に入り、ごく稀な例外として大学を出た
ショーペンハウアーやニーチェはいたが、哲学と大学との結び付きが強くなる。その傾向はベルクソン、フッサール、ハイデッガーなどの現代でも変わりない。

ということで、近代の大学の哲学は、最早生き方としての哲学ではなくなった。寧ろ、国家の教育機関で哲学が教えられるようになり、哲学の自律にも問題が出てくる。ショーペンハウアーは、その状態を次のように皮肉っている。「教育の目的はポジションを与えてくれた大臣の心情を学生に教えることである」。まさに、御用学者が生まれるのは当然の状況になったということだろうか。

ただ、古代哲学の実存的な側面が完全に消えたわけではなかった。『省察』(Méditations métaphysiques)を書いたデカルトや『エチカ』(L'Éthique)のスピノザがいたからである。デカルトは瞑想(省察)をある期間実行するように推奨している。わたし自身もこの助言には賛成である。過去10年余りの経験から、瞑想にはすべてを変える力があると感じているからである。

哲学の定義は自由であるが、こと古代に関する限り、哲学とは「智慧の鍛錬」であった。そこには、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、犬儒派、ストア派、懐疑派がいた。そのやり方には違いはあるが、その複数性こそ貴重なのである。ヤスパースが言っているように、一つを取って他のものを捨てるというのではない。われわれの内的生活には、エピクロスもストア派も分かち難く存在しているのである。

古代においては、一瞬一瞬に集中し、そこに無限の価値があることを自覚することが勧められた。「智慧の鍛錬」は宇宙的次元を含んでいるからである。ただ、古代の宇宙的意識は現在で言うところの科学知に基づくものではなく、生きた経験の中にあった。

最後に、古代の哲学は逃避や自己に閉じ籠る行為であるとの誤解があると指摘している。実際には、常に集団、共同体を作って哲学の活動は行われていた。そして、社会に働きかけ、変容させることを放棄したわけではなかった。寧ろ、共同体に奉仕する義務、正義に基づいてい行動する義務を重要だと考えていた。それは宇宙的理性、人間に共通する理性と合致する同じ智慧である。つまり、哲学的生活とは共同体へのアンガジュマンを含むものなのである。そのためには情念ではなく理性のレベルに留まる必要があり、最も難しいことである。内的平静と激しい情念との均衡を如何に取るのかという問題が出てくるからである。それこそ、スピノザが『エチカ』の最後で指摘したことでもある。


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今回初めての試みであったが、初日が7名、2日目は11名の参加があった。これだけ多くの方が参加されるとは想像していなかったので驚いている。2日目にはフランス人の歴史家フランク・ミシュランさんの参加もあり、日本人だけとは違う世界が広がっていたのではないだろうか。参加された皆様、そして、今回のテクストの試訳を提供していただいた福井聡嗣様には改めて謝意を表したい。

次回は、10月に開催する予定である。今回、2時間では十分に読み、語ることが難しいことが分かったので、次回は3時間にすることを考えている。それから読むべき部分を選択して集中するという可能性も考慮したい。



参加者からのコメント

● ありがとうございました。とてもいい時間でした、私にとりましては。頂いた資料(メモや訳文)やあの時間に感じ、書き留めたものを見ながら読み返しています。じっくり時間をかけて続けていきたいと思いました。次回もよろしくお願いいたします。

● 現状でも数種のコースを主宰されながらも「ベルクソン・カフェ」(名称がなんとおしゃれな!)をご開講いただいたことに大いに感謝します。貴重な会に向けていちおう予習をと思い、数十年ぶりに辞書を引きながらフランス語を読むという作業を試みましたが、苦しさと愉しさを両方味わいました。苦しさの方は動詞の時制変化について行けないことや、何度読んでも意味が取れない箇所があることなど、一方、愉しさはやはりオリジナルのフランス語での思考にふれることによって(翻訳された文章ではどうしても隔靴掻痒の感がありますので)、新たな見方、新たな世界が広がる気がすることでしょうか。

さらに言えば、たとえ文法的には正しく翻訳できたとして、はたして日本語の「理性」とフランス語の“raison”は同一の概念をさすものだろうかという疑問、不安が生じてきたりもします。私の感覚では、日本語の「理性」には「宇宙的意識」や「宇宙的自然の意志」などの意味が含まれる場合は少ない気がしますが、いかがでしょうか。後半では、このあたりの疑問も含めて参加者の皆様とより議論を深めていければと思います。

● 本日お陰様で素晴らしい時間を過ごしました。どうぞお気を付けてフランスへお向かいください。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。

● フランス語文献の哲学書を読む、という会に参加するなんて無謀な冒険だし、初級も覚束ない自分が参加しては失礼にあたるかと思いましたが、フランス語の音声が聞けるだけでも嬉しい、先生も「お楽しみください」とおっしゃってくださった、と自分に言い聞かせ出席しました。哲学的な言説とその知識を詰め込むことで終わるのではなく、哲学そのものを生きるというピエール・アドーさんのメッセージは、私の無意識に閉じ込めた憧れを指し示しています。「何かに役立つか役立たないか」という発想を、ついしてしまいますが、それはやがて人を縛りのある日常へと追いやるのですね。なので、この文を書きながらこう思えてきました。自分の生活に直結しないフランス語で学ぶ行為自体、私自身を変容させる何かの意味があった、ある、のかもしれない、と。   

テキストのレベルは易しくはないので、ついていくのに必死で、時折文を目で追えなくなることもありましたが、情緒的、感情的な文章とはまた異なるので、先生のガイドにより何とか沈没はまぬかれた・・・気がします。次の次の回くらいには、自分で読む挑戦をしてみたいものです。今回出席されたフランク・ミシュラン先生が、中世フランスの大学とフランス革命18 世紀以降の大学の在りようの違いに言及されたことで、ピエール・アドーさんのスコラ哲学に対する主張の輪郭が見えて、納得がいきました。また、いわゆる「暗黒時代」といわれる中世の学問を、どなたかガイドしてくれないだろうか・・・おもしろそうだなと興味を持ちました。 

● お疲れのところ、早速ブログに「カフェ報告メール」頂きありがとうございました。私は昨夜メールより先にブログ見させていただきました。テキスト、資料、すばらしい試訳を見ますと、私にはまだ手の届かない雲の上?のお話ですが、参加できたことをうれしく思っております。ありがとうございました。

● 最後の方の質問で日本語の「理性」とフランス語の"la raison"という言葉のちがいに関するミシュラン先生のご回答、「la raisonは中国思想でいう気の概念も含む」という発言に大いに目を開かされました。「気」というと気持ちとか気分といった感情的な意味の印象が強く、そもそもの「気」という漢字自体の意味を忘れがちでした。なるほど中国思想(道教など)でいう「気」はたしかに天地を貫くものとして宇宙的な理性をも意味すると思いますので、気=理性のつながりは非常に納得できます(「気がふれる」等)。我々日本人は世界的にみれば東アジア漢字文化圏の一員である、という認識は日本をより知るうえで重要な視点だと改めて思いました。



フォトギャラリー

第一日目



(2017年6月24日)


第二日目



(2017年7月1日)








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