2-BC



第2回ベルクソン・カフェの内容を以下のように決定いたしました

ポスター


<2回シリーズ>
 
① 2017年10月14日(土) 16:00~19:00 
② 2017年10月21日(土) 16:00~19:00

(1回だけの参加でも問題ありません)


テクスト

Pierre Hadot
« Apprendre à vivre »  
「生きることを学ぶ」  

Exercices spirituels et philosophie antique, pp. 19-38
(Albin Michel, 2002)   

本年6月にフランス語のテクストを読み、哲学するベルクソン・カフェを始めました。初回は20世紀フランスの古代哲学研究者ピエール・アドーの « La philosophie comme manière de vivre » 「生き方としての哲学」を取り上げましたが、今回も同じ本 Exercices spirituels et philosophie antique (Albin Michel, 2002)にあるエッセイ Exercices spirituels 「魂の鍛錬」の中の一章 « Apprendre à vivre » 「生きることを学ぶ」を取り上げます。前回、2時間では短すぎるように感じましたので、今回は3時間に致しました。議論は日本語で行いますのでフランス語の知識は参加の必須条件ではありません。参加予定者には原文をあらかじめお送りし、それを共に読みながら生きることの意味について考えたいと思います。

会 場

新装予定の恵比寿カルフールB会議室

東京都渋谷区恵比寿4-6-1 恵比寿MFビルB1


参加費(1回分)

一般 1,500円、 学生 500円
(コーヒー/紅茶が付きます)


このテーマに興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
ご理解、ご協力の程、よろしくお願いいたします

(2017年7月7日)



会のまとめ


第一日目

前回、2時間では駆け足で読み進めなければならなかったことを踏まえ、今回は3時間とした。そのため、最初からかなりゆったりした気持ちで始めることができた。全体的に見ても確かめながら噛みしめるように読むことができたのではないだろうか。それから、直前に3名の方が都合が悪くなり参加されなかったので、個人間の距離が近く感じられる会となった。今回のテーマは「生きることを学ぶ」という9ページのエッセイだが、予定通り4ページ半を余裕をもって読み終えることができた。概略は以下の通りである。
冒頭に、フランスの社会学者ジョルジュ・フリードマン(Georges Friedmann, 1902-1977)の『力と知恵』(La puissance et la sagesse)からの引用がある。そこで言われているのは、飛行する(飛び立つ)と表現している「魂の鍛錬(exercice spirituel)」を毎日行うことが大切であるということ。つまり、自身の感情、虚栄、自分の名前に纏わりついた評判の掻痒感を取り除くように努めること、憐れみと憎しみを取り除き、すべての自由人を愛すること、そして自らを乗り越えることによって永遠になることを勧めている。
この文章を読んで、まるでマルクス・アウレリウス(Marc Aurèle, 121-180)のようではないかと、アドー氏は指摘する。しかも、フリードマンはそのことに気付いていないようなので、いかに古代の伝統が無意識のうちに我々の中に生き続けているかの証左になると見ている。それからイントロとして、spirituel という用語の問題について一通り議論している。「スピリチュエル」というやや当惑させる言葉を使わなければならない理由として、他の言葉、例えば「パンセの」では想像力や感性が関わるこの運動(鍛錬)を表現し切れていないし、「アンテレクチュエル」も「魂の鍛錬」が持っている知的な要素(定義、推理、解読、探究など)を表していることは認めるが、それだけでは満足できるものではない。「魂の鍛錬」には感情や狂信に対する治療法の意味合いがあり、世界観の変容や人格の変貌に繋がるものであるからだ。「スピリチュエル」という言葉には、単なる思考だけではなく、個人の精神のすべてが働いていることが含まれているので、「エティック」でも表しきれていない。ということで、この言葉を受けざるを得ない。ただ、それはキリスト教の一つのバージョンに過ぎないイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignace de Loyola, 1491-1556)の『霊操』とは一線を画し、その起源は古代のaskesis(魂の鍛錬)にまで遡る。
「生きることを学ぶ」の本題に入ると、哲学を「鍛錬」と捉えていたストア派を取り上げている。つまり、純粋に知的な理論的営みではなく、より善い存在に導く生き方に関わっているからである。その哲学を実現した時、偽物の生活から自己を意識し、正確な世界観、内的平穏と自由を得た本物の生活への転換が起こる。ストア派の原理に、我々に依存するもの(コントロールできるもの)と依存しないものを峻別することがある。前者は我々の精神活動だけで、それ以外の外部的なもの(財産、名誉、自分の体など)は我々のコントロールが及ばない。我々は自然の中にある原因と結果の連鎖に身を任せているだけなのである。この峻別ができていなければ、手に入らないものを入るものと錯覚して人間を不幸に陥れるので、それを教えるのがこの派のミッションになる。このようなものの見方や内的生活の転換において重要な役割を担うものとして、「魂の鍛錬」を捉えている。
ストア派の基本的な態度としてプロソケイ(prosoché)がある。これは精神が休むことなく警戒しながら働いている状態、自己意識が常に目覚めている状態、精神が常時緊張状態に在ることを意味している。これがあるお蔭で、上に挙げた我々がコントロールできるものとできないものの識別を身近なものとすることができる。それは同時に、現在に集中すること、すなわち、そこで起こることを恭しく享受し、その場にいる人間に公平に対応し、そこに現われるものを秩序立てて検証することを意味している。その助けになるものとして、短くも明確な言葉で表現された教えを纏めたものを用意することが欠かせない。そして、我々の力の内にない過去や未来が齎す激しい感情から解放され、常にコントロールできる現在への集中を高めることになり、最終的には我々の意識をすべての瞬間に含まれている無限の価値に向け、それが宇宙的意識へと開くことになる。

第二日目 

今回も直前に2名の方から欠席の連絡が入った。期せずして二日目も3名の方の参加をいただいた。お一方は信州から参加していただいた。このようなテクストを読む場合、全員がそこに参加しているという意識を持ちやすい人数になるのだろうか。自然に議論が進んでいると感じながら読んでいた。
今回は、後半の4ページ半を3時間で読んだ。ここにストア派とエピクロス派の対比が出ていた。ストア派は前回見たように、自己に常に注意を向け、道徳的な逸脱を監視している。プロソケイである。将来起こるかもしれない災いを思い描いて、その時が来ても耐えられるように準備する。プレメディタチオ・マロールムと言う。その意味では、精神が常に緊張を強いられる状態にある。それに対してエピクロス派は、この緊張を解こうとする。辛いことを思い描くのではなく、楽しいことを考え、コントロール可能で耐えることができる現在への集中を説く。「その日を摘め」(カルペ・ディエム)をモットーとしている。
エピクロスは有名な「四つの治療法」(テトラファーマコン)を提示した。「神々は心配するに値しない(この世界の動きに直接関わっていないので)。死は災いではない(死んだ後には何もないので最早心配する必要はない)。善いものは手に入りやすい。そして、悪いものは耐えるのが容易である」 。これらは当時の人々を心配事から解放したのではないだろうか。そして、物理的な世界を瞑想すること、無限を想像することは、もの見方の完全な変化を惹起すると説く。そこで広がるのは閉じた宇宙が無限に膨張する像であり、自然がその姿を露わにする像である。この行為自体が魂の悦びを引き起こすという。エピクロス派は友情を大切にし、共同体を作った。そこでは、良心の検討と関連する誤りの公共の場での告白、友愛を基にした誤りの訂正が行われた。そして、それ自体が魂の鍛錬になったのである。
今回のテクストでは、主にストア派とエピクロス派から生きる極意を引き出そうとしている。わたし自身、この哲学を知ったのはフランスに渡ってからで、最初はエピクロス、そして最近ストア派の哲学とはどういうものなのかの概略が見えてきた。生きることが先にあったわけだが、その道を振り返ってみると、両派の哲学がここかしこに確認できることに驚いている。その意味では、今回のテクストが言いたいことは非常によく分かるという印象があり、それはニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)が病気だと考えていた人生(生そのもの)を生きる上での有効な「治療法」になるのではないかとも考えている。参加された方々はどのような感想を持たれたのだろうか。
今回もお忙しい週末に参加して議論に加わっていただいた皆様に改めて感謝いたします。


参加者からのコメント

● 示唆に富む訳文解説をしていただき、考えさせられるものがありました。
● 昨日はありがとうございました。参加させていただき感謝しております。前回は初参加で、ドキドキしていましたが、うっすらと抱いた感想「実生活での自分の内面の動き、記憶と照らし合わせて、その中に、少しは哲学らしい事柄があったのか。カフェに参加することで、それをはっきりと意識し、質の良い時間を生きることが、私でもできるのか?」と言う思いを、今回さらにはっきり感じながら参加できました。
● 今回のテキストに出て来た言葉「自分自身に対する継続的で断固とした注意深さ――プロソケイ」という単語が、印象に残りました。日々の仕事、雑事に追われているとおろそかになる事柄ですね。それから、「哲学者は治療者である」という言葉は、何かはっとさせられました。俗に言う「癒されるわ」という軽い言葉とは異なり、深い層で人が大切にされ慈しみを受ける様に感じました。自分の内面を丁寧に見つめる古代の哲学者の営みが、アドー氏の語りが、今現代に生きる私と結び合わさったような気がした瞬間がありました。エピクロス派の詩人ルクレチウスも興味深く、本があれば読みたいと思いました。
● 翻訳文をありがとうございます。とにかく日本語の文にしてみることも自分の課題としていますので、見直せる資料がいただけたこと、ほんとにうれしいです。ゆっくり、考えます。ありがとうございました。
● 御礼遅くなりました。テキスト翻訳を送付していただきありがとうございます。何度も読み返しております。先生の読み(フランス語)を耳で聞いた時に受けた印象と、漢字で表記された日本語の文章を目で読む時の自分の感覚とが、異なっている様に感じ、面白いなと思いました。同じ事を表現しているのに、一方は柔らかい素材で、もう一方は固い素材でできているかの様です。また次回、あれもこれもと欲張って、参加したいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
● テキスト翻訳と解説、ありがとうございました。心待ちにしておりました。フランス語、日本語でも読解することに時間がかかってしまいました。というよりゆっくりでないと進めませんでした。今回最も印象的な言葉は「必要なものは容易に手に入り、手に入り難いものは必要ない、幸福な自然に表れている」というところです。自然に癒されたフレーズでした。エピクロス派・ストア派、哲学という言葉に遠い存在の私ですが、考えることへの貴重な時間を頂いたような気がいたします。cultiver notre jardin 読んでみようと思います。多くの用事のお忙しい中会を開いて頂き、改めて感謝申し上げます。


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第一日目




第二日目




(2017年10月21日)









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